音の記憶の最古
みなさんは、一番古い音の記憶をタンスから引っ張り出せるだろうか。音、とくにそれを規則性を持ってならべた「音楽」と時間はよく結びつきやすい。私は『君の名は。』が上映された際、浪人まっさかりで、今でも前前前世を聞くとその時を思い出して、気持ちがあせる。
他にも、「笑顔を忘れてしまった君に」を聞くと、公民館の照明の熱さと指揮者としての緊張を思い出せるし、じいちゃんと毎回行ったホームセンターダイキの店内音楽、何回もくじ引きをしに行ったコトブキシティのBGM、初めて市内へ行って、迷いながらも好きな人のライブを見に行ったときの「I wanna see you」など、記憶と音はかなりセットになっているし、その音楽を聞くとその頃にジャンプしたような気にもなれる。
そして、どんどん現在から記憶を遡っていくとあるところでストップするはずで、私の場合は、アクアスかどこかへ家族で行った帰りの車の中に流れる「亜麻色の髪の乙女」だった。
音を記憶しようと努力した段階が、はっきりとわかる。これより昔にも音は耳の鼓膜を揺らしていたのは間違いないが、記憶からはとれていて、映像だけ残っている感覚である。
タイトルをその時知っていることは珍しいかもしれないので、歌詞のあるものであれば一部の歌詞を覚えているかもしれない。現在ではそんな一部の歌詞でも、検索してみるとタイトルがわかってしまう時代である。そしてYouTubeで聞くと、その4分か3分かは過去にジャンプできるかもしれない。
夢の中は自分?
みなさんは夢の中で鏡を見たことがあるだろうか。あるなら自分の姿だっただろうか。
夢の中の人物は、現実の疑問など露知らず、鏡を見ようなどとは思わない。確かに身長が変化して視点が違えばわかりそうだが、夢の中ではその視点に違和感を覚えることはない。なぜなら、夢の中の自分が、現実の自分の存在を知っているとは限らないから、視点に対して疑問を持たない。
これがわかるには、夢での視点を起きた時も覚えておいて、現実において見比べるしかないが、視点はわかりやすくないので、鏡をみたシーンを覚えておきたいのである。
夢の中は自分であると錯覚してしまうのは、夢の中の登場人物が、知り合いであることが多い。または、知り合いだけ起きた時に覚えていやすいとも言える。だから、現実の自分に話しかけてくれる人と同じ人が、夢の中でも話しかけられると「自分」なのだと起きても思ってしまう。
しかし、知り合い3人が登場したとしても、よくよく考えれば、その3人と知り合いであるのは、自分だけに限定できるわけではない。
自分の家族と友達がでてくるならば、自分である可能性は高い。鏡を見るまでは、しかもそのシーンを覚えておきるまでは、観測者を取り巻く環境や他者から、自分が誰であるのか判断しなくてはならない。
いろんな図形の面積 三角形の割る2はどこから 円の面積まで
外を歩いているだけでいろんな形が目に入る。小学校で多くの平面図形の公式を習うが、四角形、平行四辺形、三角形、台形、菱形、円と、面積の公式で溢れかえっているので混乱してしまうかもしれない。理系の大学院にいる私も台形とか菱形に関しては使わなすぎて覚えていない。覚えるのは大変根気が必要だが、導くのは簡単であるし覚えるものも少ないので、それを今回はやってみよう。
大切なのは、知っている形に持っていくことである。
1.「四角形」
今、私達が知っているのは「四角形の面積」だけとしよう。それは縦をa、横をbとして面積Sは、
である。これだけを武器にダンジョンを進むことが可能である。
2.「平行四辺形」
平行四辺形は、四角形をちょうど押し倒したような形をしており、向かいあう辺同士は、長さが等しく平行である。鈍角をなしている点から底辺へと垂直に交わる線を引くと直角三角形が作られる。この三角形を切り取って、反対側へと引っ付けると四角形になる。
私たちは四角形の面積公式を知っているので、底辺をa、高さをbとすると、
となる。
3.「三角形」
さて、平行四辺形の面積が手に入った。では、平行四辺形の対角線で半分にすると、なんと三角形である。つまり面積は、
となる。2で割る理由は、三角形を二倍にして平行四辺形を作り、面積を求め、勝手に二倍してしまったので、元に戻すために2で割るわけである。
4. 「台形」
平行四辺形の面積から、もう一つ求めることができる。それが台形で、プリンを横から見たような形をしている。プリンの上を上底と呼びbとする。プリンの下を下底と呼びaとして、プリンの高さはhとしよう。この台形を、同じものをもう一つ準備して引っ付けてやる。
すると、平行四辺形の公式が使えて、求めたいのはその半分であるから、
となる。
5.「ひし形」
ひし形は、平行四辺形の特殊な形で、すべての辺が等しく、対角線a、bは直行する。
対角線2本が与えられているとき、上の図を見ると、三角形が4つ寄せ合ってひし形を形作っているのが見て取れる。この三角形の底辺はで、高さがであるから、三角形の面積公式は出しているので、
となる。
6.「円」
ここで、少し武器を増やす。四角形の面積とこれを覚えるだけで大丈夫だ。
円に触れるには、円周率が必要なので、まずは円周率の定義から述べる。定義なのでルール、決め事なので覚えなくてはならない。
定義:円周率は、直径と円周の比で、
である。
この定義から円周は、である。
次に、弧の長さを求めたいので、角度の単位「ラジアン」を紹介する。非常に単純で360度をラジアンとするような角度の測り方であるこれを用いると、円周が扇の角度を360度回した時なので、比を取ることにより求める。扇の角度として、
である。
やっと円の面積だ。ここでも知っている形に持ってきたいので、円を非常に細かい扇形に分解する。ピザ1枚を100人の大家族で分ける所を想像してみてほしい。すると非常に細いピザが配られる。この時、本当は「弧」を描いているのだが、細かく分けたせいで直線に見える。よってこの扇形を高さ、底辺rの「三角形」として近似する。これを扇の角度(dを付けたのは非常に小さいという意味)を足しあげたときとなれば、それがもとのピザの面積、求めたい円の公式を得る。
つまり、一つの三角形の面積 (i=1,2,3,,,,,)は、
これを足しあげてになれば円である。
よって、円の面積は、
と有名な式が得られた。
公式は使わなければ忘れてしまうが、四角形の面積くらいは覚えられる。知っている形に持っていくことができれば、あとは勝手に求めることができる。省エネでいこう。
#数学#幾何学
人気だったあの子はどこへ?
あくまで経験的には納得できる問題が一つあって、最近いいね数の多い、つまりは多くの人が共感したととらえて良いだろうというツイートを見つけたため、そこからこの問題について出発したい。
少々、主張し直すと「中高などの学校で人気のあったもの(女子とは限らない)は、社会にでてSNSの更新頻度が少なくなるように感じる」となるだろう。
人気のあったものと感じるのはなぜなのか
SNSが発達した現代、学校は、二つの世界においてコミュニティを作っていると言える。現実世界と、SNSでのつながりによる世界である。フォロワーなどによって、人気やつながりが数字として可視化され、人気という少々曖昧なものが評価できるものになった。
LINEの友達が100人いると聞いて「そんな全員と話してるわけじゃないんでしょ」と妬みも入り混じりながらぼやいた思い出もあるかもしれない。
もちろん、フォロワーを増やすために努力しているとは言えないが、可愛いかっこいい煌びやかな投稿は、自然とフォロワーを増やすことになる。
また学校の閉じた環境というのも関係すると考えられる。クラス、学校という単位では人気の方にとって少ないコミュニティといえる。それをより広く、他校、更には大人のコミュニティへと広げてしまえるので、人気のものにとってSNSは利用価値が高い。現実では限界があるので仕方なく使っていると言った感じではないだろうか。
それが学校という閉鎖的なものから外れ、社会という大きなものの一員となれば、金銭的余裕もあり、現実の自由度が高まるため、SNSにかまっている暇がないほど現実が忙しく、楽しくなっていると予想する。
このような人が次に投稿するとしたら、真っ白な結婚式か、子供ができましたか、婚約届の上に指輪並べたやつくらいだ。それ以降は子供だいすこすこチャンネルと化す。私みたいなものは子供の顔が識別できないのでみんな同じに見えるが、可愛いねととりあえず言ってみたりするわけだ。
また、日常がパターン化するというのもある。子供の頃はパターン化されているようにみえてイベントが散りばめられており、投稿する特異点的な日が用意せずとも存在していたといえる。
大人になると特異点を自ずから設定しないとイベントは起こりにくい。体育祭はもう来ないし、乗ってれば遊園地につくバスなんかも来ない。変化はエネルギーを使うので、パターン化して変化を少なくするほうがエコである。
日常を切り取ってSNSにあげるというと簡単でいいようにも聞こえるが、日常は溶け込みすぎて切り取りづらい。
ここまでは、投稿が減る理由について注目してきたが、次は捉える側はどうか考えたい。
「人気」としてしまうのは、よくよく考えてみると違うのだ。
人気だったから、投稿されないことに周囲が気づきやすい。つまり目につきやすいために、「人気があった人」がSNSを更新しなくなると思ってしまう。
人気な人だけが、投稿が減るわけではなく、人気な人は、投稿が減ったことを気づかれやすいというのが主張が共感されている理由ではないだろうか。
偏見は、矛盾と並んで人間らしい性質だと思う。
卵が先か鶏が先か
こんなパラドックスを聞いたことがあるだろうか。鶏は卵から生まれるが、卵を産んだのは鶏である。ではどちらが先に生まれているのだろう?と言うものである。
これの私なりの答えとしては、どちらとも言えないというなんとも面白くないものだが、聞いていただきたい。
まず卵とはなんの卵だろうか、"鶏の"卵というなら鶏から生まれるしかないので鶏が先になるが鶏は鶏の卵から生まれる。つまり先が定義できない。
では、ダーウィンの進化論を信じることにして鶏には先祖がおり、そして進化は卵の中でゆっくりと執り行われていったとしよう。鶏と先祖のはっきりとした区別がつく境目があるなら、先祖の卵のなかで鶏に切り替わったなら、つまり鶏の卵と限定しないなら「卵」が先と言えるかもしれない。しかし、どうだろうか人間が勝手にラベル付をしただけでニワトリと先祖の間にも進化過程のなにかがいて「ここからニワトリ!」と名前をつけれるかどうか怪しい。
しかもその卵はニワトリの卵と呼ぶのか、先祖の卵と呼ぶのかわからない。
つまりこの卵の責任は誰がとるねんということだ、ニワトリが生まれるならニワトリの卵?ニワトリが産んだらニワトリの卵でそのあと出てくるのは進化したニワトリ?と言うわけだ
夏の暑さで頭が回らなくなってきたのでここまでにしておく、いつかほかの考えが浮かんだ方は教えてほしい
好きな人といい人の違いは面白い
いい人ではある。このもはやテンプレートとも言える文句は、絶望に突き落とすには充分すぎるものだ。
いい人と好きな人には大きなギャップがあり、その違いはなんであるかというのは難しい問題である。しかしながら、こんな問題などものともせず、夫婦やカップルがいることもまた事実であり、矛盾しているようにも見える。
もちろん、相互が好き好き同士なパターンは少なく、どちらか一方、または両方がある意味妥協しているほうが起こりやすいなら矛盾しない。
いい人とは、言葉を選ばなければ、つまらない、面白くない、平凡である、一緒にいても変化が見出せないなど、その当たり障りのなさから予想できる。
つまり、いい人は自分が優先権を主張するまでもなく、いつも通り話すこともできるし、遊ぶこともできる。無くなることのない、無くなる心配のないために、手にしたいと思えないことが原因と言える。
その逆として好きな人を好きな人たらしめるのは、無くなる心配からくる優先権が欲しいために生まれるはずである。
モテるものはなぜモテるのかというと、モテるからである。他の人が手に入れたいと渇望するものは、欲しくなり、口約束である告白で、優先権のようなものを手にした気分になれる。
ではモテるためにモテなければならないとなると、モテ始めというものの決め方をどうすればよいだろうか。
モテるというものを好意以外の感情に拡張して、友情として初めのモテを作り上げると考えてもいい。
さて、友達100人できるかなが今の条件となった。誰かれ構わず数を稼ぐとするならば、自分を押し殺して振る舞えば良い。そうすることで篩にかけられることなく"友達"ができる。
これはいい人に移り変わってしまっている。なんとなれば、当たり障りなく平凡であると言えるからだ。好きな人になるための条件を考えていると、いい人が生まれてしまった。
これは、偏見を入れすぎたせいとも言えるが、どこに入れている、入れすぎているだろうか。
友達を増やすことと自分を出しすぎないことは繋がるか、モテるものがモテるというのが無理矢理なのか、無駄に考えるのは面白い。
いい人と言うのは、いい人、いい人でないに関わらず、断る側が、自分は優しいと言い聞かせるためであると言う考えもあるが、ひねくれすぎている気もする。
他の意見があれば、是非教えていただきたい。
残酷なはないちもんめ
私は気づいてしまった。子供とは純粋ゆえに残酷で、自身ではそれに気づけるほどの理性が完全に備わっていない生き物であると。
いつものように大学にてくてくと登校する途中に、小学校がある。懐かしい図工室の木屑の匂いが外にまで飛んできて、その道はとても好きだ。しかし、ある日学校から「はないちもんめ」と元気な声が聞こえてきた。幾分古風な遊びをやるものだと面白がっていたが、よくよく考えてみるにこのゲームは残酷で、禁じられた遊びと言って良いことに気づいた。
はないちもんめとは、その掛け声と同時に二つの列が前後し、あの子が欲しいあの子じゃわからんなどと宣って、そのあの子が代表して前に出てジャンケンし、負けた側は勝ったグループに移動する。そして人の居なくなった側のグループの負けというゲームである。
さて、想像してみよう。はじめに選ばれる確率の高いものは誰だろうか。もちろんその選出はそれぞれのグループで話し合って決められる。クラス全体で行う場合、発言力の高いものの親しい人物もしくは、クラス内で人気の高い、つまりは「あの子がほしい」という欲求のまま選ぶかのパターンが考えられる。選出されるされないの時点でまず、傷を負うものが現れてしまうのだ。このゲームによって、学校の地位を晒し上げられることと同義といえる。最後に残ったときを想像してみてほしい。次回から休憩時間にアサガオの鉢と会話することになるだろう。
しかし、幸せなことに小学生などの子供では、地位に関して無関心で、勝負に勝つことだけを目的にしていることの方が多かったように思う。中学生にはないちもんめはできないだろう。
人を選び取るという部分にはないちもんめの怖さがある。しかも、負けた側は、勝者側のグループに吸収され、つまり勝者グループは、全体の人気度を膨らませながら、足を蹴り上げ敗者側に歌いかけてくるのだ。おそらく人数が膨らんだ側についたものは、もはや元いたグループのことは綺麗さっぱり忘れ、長い物に巻かれることも覚えていくだろう。
実際にはおそらく、初めからみな平等に親しい人で二つのグループが構成され、選出は人気度では決まらず、ある種ランダムになると考えられる、いやそう願いたいものだ。
小学生諸君に注意したいのは、あさがおの鉢は早めに持ち帰ろう。学期終わりの下校でハウルの動く城となって帰ることになる。その時最も煙突感を出すのが、まさにそれだからだ。