人気だったあの子はどこへ?

あくまで経験的には納得できる問題が一つあって、最近いいね数の多い、つまりは多くの人が共感したととらえて良いだろうというツイートを見つけたため、そこからこの問題について出発したい。

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少々、主張し直すと「中高などの学校で人気のあったもの(女子とは限らない)は、社会にでてSNSの更新頻度が少なくなるように感じる」となるだろう。

 

人気のあったものと感じるのはなぜなのか

SNSが発達した現代、学校は、二つの世界においてコミュニティを作っていると言える。現実世界と、SNSでのつながりによる世界である。フォロワーなどによって、人気やつながりが数字として可視化され、人気という少々曖昧なものが評価できるものになった。

LINEの友達が100人いると聞いて「そんな全員と話してるわけじゃないんでしょ」と妬みも入り混じりながらぼやいた思い出もあるかもしれない。

もちろん、フォロワーを増やすために努力しているとは言えないが、可愛いかっこいい煌びやかな投稿は、自然とフォロワーを増やすことになる。

また学校の閉じた環境というのも関係すると考えられる。クラス、学校という単位では人気の方にとって少ないコミュニティといえる。それをより広く、他校、更には大人のコミュニティへと広げてしまえるので、人気のものにとってSNSは利用価値が高い。現実では限界があるので仕方なく使っていると言った感じではないだろうか。

それが学校という閉鎖的なものから外れ、社会という大きなものの一員となれば、金銭的余裕もあり、現実の自由度が高まるため、SNSにかまっている暇がないほど現実が忙しく、楽しくなっていると予想する。

このような人が次に投稿するとしたら、真っ白な結婚式か、子供ができましたか、婚約届の上に指輪並べたやつくらいだ。それ以降は子供だいすこすこチャンネルと化す。私みたいなものは子供の顔が識別できないのでみんな同じに見えるが、可愛いねととりあえず言ってみたりするわけだ。

また、日常がパターン化するというのもある。子供の頃はパターン化されているようにみえてイベントが散りばめられており、投稿する特異点的な日が用意せずとも存在していたといえる。

大人になると特異点を自ずから設定しないとイベントは起こりにくい。体育祭はもう来ないし、乗ってれば遊園地につくバスなんかも来ない。変化はエネルギーを使うので、パターン化して変化を少なくするほうがエコである。

日常を切り取ってSNSにあげるというと簡単でいいようにも聞こえるが、日常は溶け込みすぎて切り取りづらい。

ここまでは、投稿が減る理由について注目してきたが、次は捉える側はどうか考えたい。

「人気」としてしまうのは、よくよく考えてみると違うのだ。

人気だったから、投稿されないことに周囲が気づきやすい。つまり目につきやすいために、「人気があった人」がSNSを更新しなくなると思ってしまう。

人気な人だけが、投稿が減るわけではなく、人気な人は、投稿が減ったことを気づかれやすいというのが主張が共感されている理由ではないだろうか。

 

偏見は、矛盾と並んで人間らしい性質だと思う。