懐かしさについて

今日は、とても久しぶりの方に会った。変化しているといえばいるけれど、変わらない部分も見えて非常に懐かしく思った。

幼稚園はどっちだったか定かではないが、小中高校と同じ学舎に足繁く通ったもののそこまで強く関わっていたわけではなかった。

しかし記憶の断片のなかで、印象に残るものが多く、憧れに近いような感覚を持っていた。

そして去年からか、昨今の便利なSNSによってお話する機会ができ、本日会えて、さらに絵画までいただける始末である。

 

なぜ人は懐かしく感じるのか、今一度考えてみたい。知らないものを懐かしむことは難しい、過去に経験しているもの、経過を知っていると懐かしさを覚えやすいだろう。知らないのに懐かしさを覚える時も、似たような記憶が過去にあるので、どれだけ過去の記憶と近しいかがトリガーになっているように感じる、これも「知っている」と簡単にしてしまおう。

今のところ人生において、懐かしい!と胸踊る経験はこの本日の人との会合と、もう一つ「ニュージーランド村」という広島には遊園地があった。少し脳筋さながらチャリンコを漕ぎ進め、閉園になったそこを訪れたことがある。

小さな頃に祖父母や家族と高い頻度で遊びに行ったあの異国の雰囲気のする遊園地は、物は残っているものの、風の音や葉の音しか聞こえない空間になっていた。

時間によって変えられたこの雰囲気も、空間としてはそこに存在し、頭の中の過去を引っ張り出すと狂おしいくらいの懐かしさに見舞われる。

ヒルボートでいちゃこくカップル、優しすぎる祖父母、音を鳴らしてゆっくりと動く電車を模した乗り物、エネルギーを撒き散らして走る子供達 今そこに存在しなくとも想像のなかでおくことができる。変わらない空間が目の前にあるなら時間は想像で巻き戻せばよろしい

「懐かしさ」を覚えるときの脳内はこの作業を行なっているのではないだろうか

遊園地など大規模なものではなくとも、近くの遊んでいた公園や、変わってしまった故郷の景色、大人になった友達を記憶の中で巻き戻してみよう。きっと美しい経験ができることと思う。

最後に、たくさん遊んだ通称ちびっこ公園の現在を載せて終わりたい。この公園には壁や遊具があったがそれも道作りでなくなり、今は草原である。

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