浪人時代と友達 好きと得意の相違点

二度としたく無いものに「浪人」がある。この大学受験という名の戦争は、残酷ながら未成年の高校生に赤紙が届く、というより自ら赤紙を志願する。

小学生の頃から理科に魅了され、アイデンティティとまで思えるほどに「好き」という恋焦がれるような感情を持っていた。

しかし、全国的に見ると理科が出来たというわけではない。

人間誰しも、「勉強」は嫌いであると思う。ちょっとした感動などはあるにせよ、勉強するよりもブランコしたいし、ゲームしたいし、友達と遊びたいのである。

勉強は、楽しいものだと風潮する人間は嘘をついている。研究など自ら発見、進んでいく段階に行くとそれは勉強という色は消え失せ、興奮を覚えるほどに面白いものではあるとおもうが、目的とまでではなく手段として勉強するのでは「楽しい」までいけるだろうか?

ともかくとして、超絶的にお勉強ができたわけでは無い私は知識は偏り、英語やら国語の古文漢文はズタボロであった。

この時、感謝しているのがS君という人物である。

浪人時、Sとだけは遊んでも無駄にならないと考えていた人物で、ある日ジュンク堂という広島駅の近くの本屋さんで話していた。

Sは、良くも悪くも現実を教えてくれるのである。これがたまに腹正しいこともあるが、当時の私にとって必要であった。

総合的にできなければ、さらに得意と謳っている高校物理でも全国的な位置は低いことを冷静に教えてくれていた。

あの本屋さんでは、現実を受け止めるほどのバケツが備わっておらず、バケツに入れた瞬間、涙に変わり、そのバケツには穴が空いていたみたいで本屋さんにて友人前で涙を流す醜態を晒しあげ、何も言わずに立ち尽くしてしまった。

その時の謝罪とお礼を、「自分のエッセイはまだ出ないのか」と言うてきたのでこれで勘弁していただきたい

 

現実とは見たくないときも多々あるが、見たほうが良いことも多々ある。

夢を追うならば、現実との距離を冷静に受け止めて進む必要がある、簡単なことではないが。

今回は友人であったが、広く他者とは現実への鏡であるように振る舞うことがあるので、他者との関わりはこのような面で必要であると私は感じる。

 

何回言われても、ダイパリメイクはやりません

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