3の倍数の審判
暖かい空気の中に、花粉が子孫を残さんと暴れまわる季節となった。ところで、数字をパッと見て3の倍数であるかどうか、知りたいと思うことはあるだろうか。言ってしまえばほとんどないが、世界のナベアツが3桁、4桁と増えても正しく3の倍数でバカにならないといけないときや、素数かどうかを判断する際に、2で割れるかどうか確認し、割れない際に次に試してみるのが3であるだろうから、その際に強く3の倍数の判断を瞬時にしたくなることはあるだろう。
このときに、有用な定理がある。「ある数(ここでは自然数)の位の数を足した結果が3の倍数であれば、は3の倍数である。」
簡単のためにが3桁のときを証明してみよう、
ある数は、1~9までの数字を用いて
とかける。
定理の条件の部分、「ある数(ここでは自然数)の位の数を足した結果が3の倍数」は証明の際使ってよい武器なので、これを数式で書くと、A自然数として、
浪人時代と友達 好きと得意の相違点
二度としたく無いものに「浪人」がある。この大学受験という名の戦争は、残酷ながら未成年の高校生に赤紙が届く、というより自ら赤紙を志願する。
小学生の頃から理科に魅了され、アイデンティティとまで思えるほどに「好き」という恋焦がれるような感情を持っていた。
しかし、全国的に見ると理科が出来たというわけではない。
人間誰しも、「勉強」は嫌いであると思う。ちょっとした感動などはあるにせよ、勉強するよりもブランコしたいし、ゲームしたいし、友達と遊びたいのである。
勉強は、楽しいものだと風潮する人間は嘘をついている。研究など自ら発見、進んでいく段階に行くとそれは勉強という色は消え失せ、興奮を覚えるほどに面白いものではあるとおもうが、目的とまでではなく手段として勉強するのでは「楽しい」までいけるだろうか?
ともかくとして、超絶的にお勉強ができたわけでは無い私は知識は偏り、英語やら国語の古文漢文はズタボロであった。
この時、感謝しているのがS君という人物である。
浪人時、Sとだけは遊んでも無駄にならないと考えていた人物で、ある日ジュンク堂という広島駅の近くの本屋さんで話していた。
Sは、良くも悪くも現実を教えてくれるのである。これがたまに腹正しいこともあるが、当時の私にとって必要であった。
総合的にできなければ、さらに得意と謳っている高校物理でも全国的な位置は低いことを冷静に教えてくれていた。
あの本屋さんでは、現実を受け止めるほどのバケツが備わっておらず、バケツに入れた瞬間、涙に変わり、そのバケツには穴が空いていたみたいで本屋さんにて友人前で涙を流す醜態を晒しあげ、何も言わずに立ち尽くしてしまった。
その時の謝罪とお礼を、「自分のエッセイはまだ出ないのか」と言うてきたのでこれで勘弁していただきたい
現実とは見たくないときも多々あるが、見たほうが良いことも多々ある。
夢を追うならば、現実との距離を冷静に受け止めて進む必要がある、簡単なことではないが。
今回は友人であったが、広く他者とは現実への鏡であるように振る舞うことがあるので、他者との関わりはこのような面で必要であると私は感じる。
何回言われても、ダイパリメイクはやりません
懐かしさについて
今日は、とても久しぶりの方に会った。変化しているといえばいるけれど、変わらない部分も見えて非常に懐かしく思った。
幼稚園はどっちだったか定かではないが、小中高校と同じ学舎に足繁く通ったもののそこまで強く関わっていたわけではなかった。
しかし記憶の断片のなかで、印象に残るものが多く、憧れに近いような感覚を持っていた。
そして去年からか、昨今の便利なSNSによってお話する機会ができ、本日会えて、さらに絵画までいただける始末である。
なぜ人は懐かしく感じるのか、今一度考えてみたい。知らないものを懐かしむことは難しい、過去に経験しているもの、経過を知っていると懐かしさを覚えやすいだろう。知らないのに懐かしさを覚える時も、似たような記憶が過去にあるので、どれだけ過去の記憶と近しいかがトリガーになっているように感じる、これも「知っている」と簡単にしてしまおう。
今のところ人生において、懐かしい!と胸踊る経験はこの本日の人との会合と、もう一つ「ニュージーランド村」という広島には遊園地があった。少し脳筋さながらチャリンコを漕ぎ進め、閉園になったそこを訪れたことがある。
小さな頃に祖父母や家族と高い頻度で遊びに行ったあの異国の雰囲気のする遊園地は、物は残っているものの、風の音や葉の音しか聞こえない空間になっていた。
時間によって変えられたこの雰囲気も、空間としてはそこに存在し、頭の中の過去を引っ張り出すと狂おしいくらいの懐かしさに見舞われる。
アヒルボートでいちゃこくカップル、優しすぎる祖父母、音を鳴らしてゆっくりと動く電車を模した乗り物、エネルギーを撒き散らして走る子供達 今そこに存在しなくとも想像のなかでおくことができる。変わらない空間が目の前にあるなら時間は想像で巻き戻せばよろしい
「懐かしさ」を覚えるときの脳内はこの作業を行なっているのではないだろうか
遊園地など大規模なものではなくとも、近くの遊んでいた公園や、変わってしまった故郷の景色、大人になった友達を記憶の中で巻き戻してみよう。きっと美しい経験ができることと思う。
最後に、たくさん遊んだ通称ちびっこ公園の現在を載せて終わりたい。この公園には壁や遊具があったがそれも道作りでなくなり、今は草原である。
イオンモールと中学生 遊びの変化
第四公園には大きな滑り台がある。波打っていてとても大きく、そこが公園になった時から私は遊んでいた。滑り台もさることながら、そこへ向かう階段が2段回になっており、上側の短い階段がとても好きであった。
こどもは、遊びを生み出す天才であるとどこかで聞いたことがあるように、いつのまにか流れる日常の中にあそびを見出していく。その公園にはブランコもあり、サーカスだなんだと弟とよく遊んでいた。想像の中で現実と違うものを見ているとも言えるこの現象は、大人になっていくにつれ指数関数的に減少していったように思う。大人がサーカスだとブランコをしていたら恥ずかしいという面もあるが羞恥心だけだろうか?
さて、大人になってからなにが「遊び」の代表格になったのか。それは食事などお金を消費するなにがしであろう。
もちろん、バイクや車が趣味である人などはツーリングなどが挙げられるがお金を消費しなければ手に入らないし、バイクは前に進まない。
食事は趣味となる人もいるが、そもそも三大欲求の一つである食欲に強く結びついており、より一般的な遊びといえよう。
食事することが、子供の遊びとならないのは多くの場合それが日常として組み込まれ、遊びとなるよりも一つ上の次元の言わば枠組みの中に形成されている。そしてお金というものへの自由度は大人より低い。
そしてこの転移経過が中学生である。外で遊ぶことを子供っぽいと蔑み、嫌がり どこへいくだろうか。イオンモールなどの大型複合施設に落ち着きやすい。
お金を多く消費できるほど持っていないが、イオンモールに遊びに行ったという口実で少し大人の真似事をするわけである。少し余裕があるものは街まで繰り出し大人と同じような遊びを手に入れていただろう。
なにを言いたいのかわからなくなってきたが、私は無印良品に行きたい。
ライブ配信とモラル
このSNSが跋扈する世の中において、「ライブ配信」なるものが存在する。
あれほどに混沌として変な空間は他にないのではないだろうか。
好きな女優さんなどをフォローしている人も少なくないので見かけることがあるのではないだろうか
このように知名度のギャップが存在するようなライブを視聴するときに顕著に見られる面白さがある。
本日、朝休憩にインスタグラムを開くと、かの大美人「本田翼」がメイクライブをしていた
女性が見る分には「参考になる」という大義名分が生まれるが、24になろうかという男子が訳もわからぬブランド名、工程が矢継ぎ早に飛び交うメイク動画を見ているのを客観視するとまず面白い。
つまり、「メイク」などのコンテンツ関係なく圧倒的な美によって視聴してしまう。
フライパン洗いますでも見てしまうだろう
次に、この客観視のせいで私はコメントができないのだが、なにを発言しても意味を感じない部分である。しかし多くの人は一心不乱に、SNSというマジックミラーの向こうからコメントを投げかける。
「朝ごはん、なにたべましたー」
「(口を拭いた)ティッシュください」
「俺の嫁にみんな必死やな」などが挙げられる。
はっきり言えば地獄のような空間であるが、少し見上げれば、天国の光のような美しさがあるため上手いこと平衡が保たれている。
なぜそのような質問をするのですか?と頭の中でシミュレーションしてみよう。
考えられる返答1.
「なぜなど考えるべきではない、なんでもよいからライブ主体者のため、人気を表す一つの指標の構成員となるために質問をなげかけ盛り上げているのだ」
考えられる返答2.
「ネタである」「流れのようなものだ」
という返答がその人になりきった私から返ってきた。
しかし、このネタを言い訳にする文化は少しSNS上では行き過ぎている。
嫁だ嫁だと言う部分は内輪ネタのようで恥ずかしく本人の目の当たる部分で発する意味を私は感じないし、ティッシュのようにえぐいものは不快にさせる可能性だってあり得る。
マジックミラーの向こうであれ、モラルは守ってほしいものである。
広島、田舎の赤い屋根
私の曽祖父母の家は千代田町という、広島の北にあり、その町の多くの屋根は赤い瓦が張られた屋根が非常に多い。
お墓参りをしに少し小高い丘を登ると、眼下が赤い屋根となるのがよく見えるので子供の頃は不思議に思いながらも、どじょうを捕まえるのに必死になっていて調べるのを忘れていた。
年末年始に訪れると、一面の銀世界で、魚たちも、ガキンチョもこたつに入って赤い屋根について考える時間が増える
まさかこの「銀世界」がヒントになっているとは知るよしもなかった。
結論から申し上げるにあの瓦は、「石州瓦」という島根県の石見地方で作られている、なんと日本三大瓦の一つだそうだ
クイズのために「三大」と付くものには弱い
東広島に特徴的と記事が散見されたが、私の記憶では北へ向かうほど多く見られたように感じる
古い建物が多いので今より物流が便利ではない時代では「距離の近さ」は多くなることへのパラメータとなりうる
そして極め付けは「寒さに対する耐久性」である。広島の北区は容赦がないほど雪が降る
近さと耐久性この二つの需要供給が、ばっちびとんと重なった結果と言える。
また、どじょうを捕まえにいこう
力学の公式達1
現在学生のかたに向け
また将来、吾子に「物理の公式いっぱいで大変だ」と嘆げかれ、泣きついてきたとき
「私も物理嫌い」と気持ちの同調を主張し慰めるのもよいだろうが、少しでも食いついて共通の敵を倒すことで結束力を高めるのもまた良いだろう。
力学には基本法則となる3法則がある。またこの第2法則に当たる「運動方程式」は力学の基礎方程式といい、基礎方程式とは、物理学のそれぞれの分野で礎に鎮座している賢者達である。
一旦ここでは、運動方程式だけ取り上げる
mは質量、xは位置、Fは力である。左辺第2項の二階微分はaと書き「加速度」である。
高校では微分を使うなと指導要領のお達しがあるため、テストなどでは使えないが公式の導出や、覚えるものを減らすために便利なアイテムである。
高校では簡単に と書かれることが多い。
今回の目標は以下に挙げる4公式を導出することである
等速度のとき
等加速のとき
さて、導出をする前に道具としての微積分を学ぼう。ゲームのルールくらいに考えてほしい。
加速度は位置の2階微分であり、速度の1階微分である。速度は位置の1階微分である。
加速度 ⇒ 速度 ⇒ 位置
位置 ⇒ 速度 ⇒ 加速度
・ルール1
微分はnを0、1、2、3...のような0を含む自然数としてとする操作である。もともとの肩の数字を前に、xの肩の数字を1だけ下げる。
具体的にはとなる。
運動方程式の場合 xを時間tで微分しているので分母分子の文字が違うが恐れることはなく、位置xは時間tによるので「xは時間tの関数」と呼び、わかりやすいようにx(t)と書くこともある。
目標の式のx=で書かれている式の左辺は時間変化しない「定数」と変化する時間tからなっているように微分を計算するのは右辺なのでtで微分するのは変なことではないことがわかる。
・ルール2
足し算でつながっているものを微分するとき、各項にルール1を使う
例えば、のとき
(*は掛け算)
なので (後日記事に)
・ルール3
定数だけなら0、定数×時間ような変数なら定数は微分の前に掛ける
やただの数字などの定数は微分すると0になる。
またのようなときは定数は無視して
となる。
・ルール4 積分
微分の逆操作であり
微分の逆操作であるので0を積分すると定数が現れ、定数1であれば
となる。
などの定数もと考え1のほうに上記の積分を与える。
・導出1 等速運動のとき
であるは初速度であり、外力Fがかからない限り初速度のまま突き進む。初速度はもちろん0でもよいので、これはニュートンの3法則の第一法則「慣性の法則」まんまである。
これを積分すると
定数にはtをくっつけ、積分定数をと書いた。
・導出2 等加速運動
両辺積分すると (1)
物理では式の両辺の「次元」つまりは単位があってなくてはいけないので定数の次元は速度の次元を持つ。
詳しく書けば なので
さらに積分すると
(2)
となり基礎方程式である運動方程式から積分することで公式を求められた。積分を用いた場合 覚えるべきは運動方程式である。
最後のx=...の式を微分していくと導出の逆となる。なので微分をするスタイルの場合覚えなくてはならないのは位置xの式となる。
公式 最後の式は
(1)式から
(2)式にこれを代入し
少しの計算ののち
である。