数式が美しいってなに?
ドラマでも、なんでも数学者、物理学者、学校の先生が数式などを見て「美しい」とつぶやく状況を見たことがあるかもしれない
美しいという感覚は、かなり個人差がある
風景や美人は、明らかに美しいように思えるが他者にとって美しいかは分からなくなる
人間の思考もよりエネルギーの小さい、つまりはみんなが美しいと思うと仮定することの方が単純であるため、美女はみんなにとって美しいと言ってしまいがちである。
固定概念はこのようなことから生まれる
主語が大きい時、たとえば「男だから、、」「女だから、」「日本人だから、、」とか、所謂決めつけて複雑な物事を単純化している
すでに私は4行目くらいに固定概念的に話した
風景は、まだ自然への畏怖による美しさの感覚の発生だろうと予想できるが、美人に関してはまだ予想できない
さて、話を戻して数式の美しさを私が感じるのはなぜか考えてみた
数学の式から言えば、「人為的な曖昧な部分など一切ない、完璧な部分」である。
こうあって欲しいとか、こうあるべきとかそんなものは一切存在しない
定義、公理、公準から、事実のみをたんたんと積み重ね、定理を導いていく
イメージでは、小さなレゴブロックでパルテノン神殿を作っていく感じだ
しかもそれを建築するために数学者達が何年もかけて完成させていく
この潔白さと、式の感じさせる背景の歴史をみて「美しい」と言っているだろうと予想する
物理学はどうだろう
基礎方程式の美しさはたまったものじゃない
例えば電磁気学はたった1行のマクスウェル方程式のなかに情報が詰まりに詰まっている。
シンプルであればシンプルであるほど、私はより美しく感じる
またその方程式や法則を導く過程では、先人達があーでもないこーでもないと、自然界を説明するため努力した結晶のようなものなのだ
その過程では、予想やこうあるべきだと物理的直感から変形したり、近似を用いて発見したりする。
物理学で一番しびれるのはこの「近似」で
数学屋さんは完璧ではないことから、これを嫌うことが多いが、完璧さなど二の次で、この世の真理に近づくかもしれないなら
背に腹はかえられぬ!えいや近似してしまえ!と割り切っているところが好きだ
そんなドラマも感じながら、自然界を支配する方程式達に畏怖と敬意をもって
私達は美しいと感じるのだ