なぜ方向音痴と呼ばれるのか

左右を瞬時に言えない左右盲であったり

本通りが北から南へ貫いていると思い込んでいた私は方向音痴としばしば烙印を押される

 

何故なのか一つエピソードをここに日記のごとく書きながら考察しよう

 

皆々様は、急に別の方法で目的地についてみようと思い立つ変な衝動に駆られることはないだろうか

 

時折やってくるこの衝動で、山や川、太陽が見えない場所で特に方向音痴ぶりを発揮する私は苦しめられることがある

 

ある日友達に「天神川という駅に集合しよう」と高らかに宣言された私は最寄りの駅からビシッと天神川まで電車で行こうと昨晩の脳内会議で決定されていた

 

駅が目的地なのだから当たり前である

 

だがしかし、当日 脳内会議に参加していなかった衝動を司る小さな私が、電車にいる時に急に躍り出て「歩いて行こう」と言い出すわけである

 

理性や、時間を守ろうといった倫理達は、昨日の脳内会議で一仕事を終えて不在

 

私の体自身も、気づけば途中の三滝駅へ降り立っていた

 

広島では街中、広島市街地のことを市内と呼ぶことが多く その市内をしっかりと横断せねば天神川には着かない

 

約束の時間まで残り2時間というところである

 

一旦そこから、大きな川を渡り訳もわからず住宅街に入る

 

この「住宅街」こそが抵抗の役割を果たす、平均自由行程が非常に短い

人の家をまじまじとみるわけにもいかず、ウネウネしたスケートボードをドヤ顔で乗りまわす子供やら、行き止まりだの大変な場所だ

 

だがしかし、少しは住宅街側を歩かねばならない理由がある

 

基本性質1として「車が多い道を歩きたくない」という目的地に早く着くには少々痛手な性質を持っているので、住宅街の静寂とメインストリート的道路の喧騒のはざまを歩くのが最も安定した軌道となる

 

思い出しながら書いている時点で、原因がもはや顔を出してきている

 

基本性質2「地味な道ばかりだと飽きてしまう」歩いていないと通らないような場所に行きたいとこれもまた厄介な性質がある

 

足を棒にしながら向かったは、広島駅から少し南東にちょっとした山があり、比治山という山である

 

ここを変わり種に設定して登って現代美術館の外観だけみてまた天神川を目指す

 

この時点で2時間30ほどかかっていた

 

ついた頃には友達は、イオン内をほぼ歩き終えて一通り遊んでいた

一方の私は膝が笑うわ、倫理が今更やってくるわでもう滅多撃ち

その時は二度としないと誓った

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その後

友達の約束の日ではないのが不幸中の幸いではあるが高知に来ても何回か、結局衝動には振り回されている

 

衝動は方向音痴の本質ではなく癖みたいなものだが、途中の訳の分からない性質1.2は方向音痴と呼ばれる要因と言える

 

ここでの方向音痴は「目的地に達するまでの時間が長い人」を方向がわからないことは到着時間が長くなる一つのパラメタになると考えられるので言うのだろう

 

方向の判断に時間がかかるのはもちろんだが

性質1 2より経路が限定され、なおかつそれは最短距離にはなり得ないことが本質だと分かった

 

約束でなんか遅いなと思ったら「三滝で降りたんじゃないだろうな」とバシッと言ってください

性質1を守り、性質2は捨て最寄り駅へ歩きます